1971年11月7日(日) 👉 2021年11月7日(日)
早いもので巴里上陸以来今日 2021年11月7日 @ 50周年記念日を迎えた巴里年齢50歳。。。
家族との交信が ✉ 📩 📧 📞 日本との距離を感じさせず生活出来た事に改めて感謝💛
1971年11月7日 日曜日 今年も同じ日曜日と云うのは奇遇か⁇
羽田東京国際空港から20㎏のサムソナイトを携え アエロフロート:ソ連機に搭乗 24歳 自分の干支の間に
計画を実現させたかった。 以来50年 日本で暮らした経験より二倍余り長い在仏生活。
ホームシックにも掛らず 到着のその日から違和感なく暮らせたのは『貴女には巴里の水が合うんだね』
と云う母の言葉が正解✌
※巴里在とは思えない為 帰国の度に母は『本当にフランスに居るのかい?』と呆れていたが(笑)
まさかの50周年 振り返ると『あっという間に過ぎ去った』と云う印象 この先10年20年も『アッ』と
云う間に過ぎて行くのだろ と云うか行先は天国の可能性も(笑) 気張らず 肩張らず 自然の流れに身を置き
気楽に歳を重ね成行きに任せて生きて来た。 神様の決めた運命だから風に幸運も不運も 成功も失敗も
『神様に決められた人生』♰⛪
個人的 50年の歩みとしては昔から 何かに取組んで…風な大層な事に興味を持つ性格では無く[赤座布団]
落第危機に脅かされながらも無事卒業できた高校生 勉強嫌いに取って 学校から解放され自由謳歌の喜びは
半端無かった\(^o^)/
適当な性格から 何かの資格を取るとか 免許とか証明書とかの興味はなく 肩書不要な人生を歩んだ。 証明証は
無くても好きな事は自分が納得する迄頑張れる。 高級仕立:立体裁断:型紙等 技術総合を6年間掛けて修得
証明証は働いた 給料明細(笑)
渡仏の目的は技術を生かした職業に就く為では無く 漠然とした花嫁修業の様な 自分の着たい服を創る為で
一生仕事して生きる等 夢にも思わなかったが結果的に 45年間働いたと言う事は 労働も苦にならず成行き
任せと云う無責任(笑) そんな訳で運命信じる他力本願。 当時 結婚と云う事すら『周りが云うから』
風な漠然とした想像しかなかった。
『フランス語勉強されて来たのですか⁇』の問いに『否』『仏語喋れるのを優先したら一生来られなかった』
と答えている。 仏語も仕事の向上と共に必要に応じて 夜間授業に取組んだ。
70年代末 仕事を離れた時に通った仏語学校 3か月目の終了試験の折『試験日に来られません』と教師に
告げると『エッ 是は大事な試験よ修了証を貰わないと 次に進級出来ず 又 同じクラスになるのよ』と強力な
助言を受けたが スルー
実は試験日はデートだった(笑) 巴里で知り合った友人が 父親の仕事を継ぐ為 田舎に引揚げ 久々巴里で
会える予定だった👀 個人的には『仏語の勉強に来た訳では無いし 証明証 貰っても次のクラスへ進級する
気も無いし』 と次の仕事が決まって居た事も有って 興味ない証明証は謹んで辞退と言う訳で試験受けず
以来学校と云う所へは 行った事が無い (苦笑)
資格を取る為 必死で勉強する人『偉いなぁ』と思いながらも個人的には興味皆無。 幸い必要としない所で
働いたが 日本の有名大学出た方より仕事は数倍熟した。 アテンドした社員が 商社マンと名刺交換して
『凄い人です』と云うのを見て『名刺に感心するより 中身をしっかり見て判断すべき』と唱え
『名刺に頼らず仕事熟せる経験を積む事が重要』と勝手な倫理で歩んだ。
学校嫌いの個人が 必要に応じて多くを学び得た社会勉強が経験となって身に就いた。 80年代バブル当時💰
日本企業の現地法人ラッシュで 会社を任された友人達は秘書と云う名目の仏人を雇って居た。
人の管理は面倒で苦手な性分 辞書と仲良く 買付:輸入:取引契約等 多種多様な仏語商業文等 商社並み
業務を一人で熟した。 ほゞ独占契約に近い取引を纏めた 80/90年代。。。
超有名なイタリア:メンズメーカーの社長に手紙書いて取引交渉も 云わば[知らぬが仏⁇] 日本からの
依頼で 相手が誰か知らず 要請に応じて業務遂行。 アポは取れたが 余りに高級過ぎて取引は数回で終了
日本市場には 高価過ぎて販売が無理だった(苦笑) [知らぬが仏]で引手数多の取引先との契約アタックも
成功 競争相手が居るとは露知らず全て自力で本社からの依頼を遂行。
※当時は日本の業界情報など入手皆無 特に巴里の服飾業界人との交流なく日本側の依頼に真面目に
真っ当に取組んで結果を出す事が任務と受け止めていた。
専門職の知識は 仏オートクチュール @ テッド・ラピドュスで学んだが ライセンスや:買付:独占:契約等
商社の様な業務は 経験皆無『 無理せず素人なりに頑張ろう』風に 状況に逆らわず オペラの🎫チケット購入
交渉並みにアタック(苦笑) 人生何が役に立つか解らない『何でも経験』と口癖だった母に感謝\(^o^)/
日本の数年勤務に比べ 仏年金受給既定40年間160四半期を全うした勤務状況『為せば成る』深刻な性格では
無い為 取敢えず何でも好きな事に無中になれる性格が 此の年になっても 日々人生を愉しく生きられる秘訣??
『頭悪くても お金無くても健康が一番』と言ってる父の傍で 母が呆れていたが 冗談好きで自由な父の性格も
受継いでる様な(笑)
今尚 男女平等云々:ジェンダー云々の話題が絶えない差別社会日本 仏で既に男女平等を自然に獲得していた
我が人生 個人的に振り返れば 日本で暮し難いだろう事を潜在的に察知して 渡仏の運命に導かれて居た??
気もする。 あの時渡仏して居なければ ストレスで寿命は 既に尽きて居たかも(笑)
何れにしても 自身が女性だから云々の意識は薄く 仕事して自立:生活する事は当然で自然な事として 誰にも
干渉されず生きられる仏社会に感謝感激。
男女差のコンプレクスも感ぜず 社会生活を送れたのは仏社会だった事も有るが個人的に余り意識しない性格も
幸いしたのだろう。。。男女差別だけでなく 社内の上下関係も余り気にせず 嫌な事は嫌とはっきり主張して
20代から下剋上で配属を変った事は数回あった。
JVC時代 20代初め 入社時の課長が移動:新任課長の仕事に不満を持ち 人事担当課長に申出た
『あの課長と仕事出来ません』『そうだな~』とご理解頂き即 受付へ配置転換。 是が渡仏計画に役だった
と同時に自身の職域を拡大し 多くを経験出来た。 貴重な経験 松下幸之助会長との遭遇もこの頃。
次はテッド・ラピドュス@26歳頃 職務怠慢のシェフに対する不満を副社長に直談判『辞めたいですか⁇』
の問いに『仕事も会社も好きで辞めたくありません』と意思表示。 この時も即 新計画のプレタ事業担当
アトリエへ配置転換。 此処で立体裁断👗 パターン:グレーディングと云う新たな技術を全て修得。
下剋上で上手く行った様に見えるが 常に辞職の覚悟を携え危機と紙一重 幸い全てクリアー出来たが
仕事を認めて貰えていた事と 仕事に対する 信頼を得て居たと言う事と 仕事を向上させたい熱意が
通じたのだろう。
1980~2000年代は 日本企業:ライセンス業務の生産会社 @ 現地法人や 直輸入買付の駐在事務所等
一人で担当して居たが 雑多諸々の事情から会社閉鎖:事務所閉鎖を通達された。 本社の都合で閉鎖の場合
解雇相当。 辞表提出を求める日本の規定は納得出来ず仏政府の労働監督所に相談📝 仏制定の解雇を要請。
解雇の場合『退職金が出ません』と不可解な日本の法則無視で『構いません 仏労働基準で』と云う事で
雇用主事情による経済解雇を要請。 結果的に仏解雇の補償金は日本の退職金に相当した。
現地法人も駐在事務所も一人で担った為 関係各所を回り閉鎖業務等 公の手続きに奔走。
多種多様の問題に遭遇しながら常に新たな経験:挑戦としてポジティブに捉える性格 独りの人間として
生活に支障を来さない様 全てを考慮。 母の言う『誰だってやれば出来る』と云う言葉が脳裏を過る。
其処には 男女差は関係無く一人の人間としての生活を構築できた。
先ず自身の男女意識:国籍を忘れるべきでは無いだろうか⁇ 潜在的意識が コンプレクスになり必要以上に
ストレスになる。 そしてイエス・ノーをしっかり主張出来る様な社会を構築すべきが日本の課題かも。
50年の在仏生活を独りで経験して来たが 親身になって呉る長年の友人達の存在が 在仏生活に安心感を
もたらせて呉れた事に感謝。 廻りも同年代 其々年金生活で巴里を離れ田舎へ移住者も多くSMSのお陰で
安易な情報交換が愉しめる ☎ 電話も良いが SMSはボケ防止も兼ねて 📱 単語の綴りに苦労しながら(笑)
※各公共料金の支払いが 引落に変る中 未だ小切手で支払っている。 仏の数字は非常に長い。 例えば
99(Quatre vingt dix neuf )是を全て書き入れる小切手は ボケ防止の訓練 何時迄書けるだろう(笑)
何時この地を離れるか⁇ オペラ観劇の条件とか 日本で何するか⁇ 何れにしても そろそろ終活:
断捨離を開始する事が先決😢 何しろ半端なく増えた荷物は 20Kgのサムソナイトから 2台の大型
コンテナ🚛🚚トラック @ 20年前の引っ越しを想い出す 今から断捨離 開始しても方付くだろうか⁇
他界する前に(苦笑)
≪ 2021年11月13日 オーストリア @ ウィーン 市庁舎前 お洒落な 横断歩道 ≫